昭和四十七年二月二十三日 朝の御理解
X御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
心で殺す。心で傷つける。大変に難しいことだと思います。人にいつも良い感じを。結局その反対の、人の心を暗くするような、傷つけるような、結局そういう心で殺したり傷つけたりすることが、募り募って、我身の難儀、いわゆるそれが積もり積もって、神のお仕置きに遭うことになる。
それをお道の信心では、罰を当たる暇があるなら、おかげをやるのですけど、まあ分かりやすく言うと、自分がお仕置きに遭わんならんということは、ある意味で、罰を受けた罰を被ったということになるのではないですかね。
そこで私どもが信心をさせて頂いて、殺したり傷つけたりではなくて、生かして行くというのか、または傷を付けていると言うなら、それを癒して行くというか、そういう状態に私どもがならせて頂かねばならないことが分かります。
次の第七十六節に、「人間は人を助けることが出来るのは有難いではないかと、仰っとられますからね。助けるということと、反対に殺すということと。ですから助けるということになります時に、それはやはり神様が見ておいででございますから、殺すことがお仕置きになることならば、それと反対のことなのですから、神様からご褒美を頂けるということにもなるわけです。大事なことでございますね。
昨日日田の綾部さんに、いつもついて見える長野さん、毎日参って見えますけれども、昨日の御理解の中に、金光様助けて下さいとの、あの御理解を聞いてもらいましたが、その方の奥さんにあたる方なのです。昨日お参りして見えてから、放しておられることの中に、折角信心させて頂くなら、本気で打ち込んで見たいと思います。
私は初めてある難儀な問題で、こちらにお引き寄せ頂いた時に、先生にお会いした瞬間、この人になら打ち込めれる。神様に打ち込むということは先生に打ち込むということだと。何にも信心は分からなかったけれども、分からないと言いながら、いろんな宗教を色々研究しとられる。特に浄土真宗なんかもう坊さんの言われるようなことを言われるように研究してある。
けれども私の心を本当に救うてくれる、助けてくれるという何物もなかったと言う。けれども、ああ私はこの先生によって助かることが出来ると思うたと。「先生私は本当に折角させて頂くのですから、私は神様に喜んで頂く、神様ということは分かりませんから、結局親先生に喜んで頂くという信心をさせて頂くと思います」と。「だからそれを忘れなさんな」と私が申しました。
本当にそうです。私の出発がそういうところからですね、出発はまあ言うならば、悩み、難儀の中から本当にこの心が救われるなら、助かるなら、というところである。ほんの僅かです。まだ何ヵ月でしょうか。二三ヵ月にもなられないくらいじゃないでしょうか。 結局私思うのにですね、只人を殺すとか、傷付けるとか、神の機感にそれが適わんというのは、そういうことがあってはならん。人を傷つけるようなことがあってはならん。殺すようなことがあってはならんということに、言うならば注意をしておくということ。そういう注意をして日々を過ごすというような、生易しいものでは駄目だと思いますね。
それにはね、場合には、傷つけるかもしれん。場合には殺すかもしれんけれども、死活自在ということがある。言葉がありますね。殺すことも出来れば生かすことも出来る。言うならば殺されなければ、新しいものは生まれてこない。
昨日皆さんにもお祈り添え頂いとりました、福岡の古屋さんがお国替えなられました。丁度九時くらい、下がっておりましたら電話がかかって参りまして、危篤と言ってきましたから、すぐ御神前に出さして頂きましたら、もう事切れておるお知らせを頂きました。けど、危篤という電話でしたけれども、また夕方のいろいろここで告別式をして頂きたい。それで、遷霊やら色々の打ち合せがありますから、若先生と博道先生と二人で参りました。おかげを頂きまして、夕方の電話で聞いてみますと、やはり八時五十分だったそうですから、私がここに出た時には事が切れておった。
まあ御心眼に頂きましたのが、あの首を切りますよね、首を切る。昔介錯といいますね、介錯が終わった後に、刀に水をかけておるところでしたから、もう事切れておった。まあ今日の言葉で言うと、ある意味でお仕置きを受けられた。死ぬるということがお仕置きなどということが妥当ではないのですけれども、けれどもね、私はあの、私が殺したということになっても良い、私の祈りが足りなかった、私の信心が足りなかった、私が不行き届きであった、ためにお国替えをなさったと言うと、私は殺したことになるのです。
けれども私はね、それを生かすおかげを頂いていると思うのです。それはどういうおかげを受けたかというと、もう入院される時から、もうこれは何ヵ月の寿命だと言っておりましたね。どちらにしましても命取り、胃癌と皮膚癌と二つの癌があった。大変に苦しい病気だそうです。
ところがそれは本当におかげを頂きまして、ここ二三日ああして朝参りをしておられたが、胸が張って大変苦しいと言っておられたのが、もう毎日音が出る程におしっこが大変沢山出たり、それから気分が良くて、余りに気分良うスヤスヤやすまれるから、「あなたそげんやすまれて大丈夫ですか」と起こさんならんくらい楽じゃったそうですね。
昨日の朝のお届けには、「親先生、昨日はおやつまで頂きました」長崎の御親戚の方がカステラを持って見えまして、そのカステラ一切頂いてみろうかと言うてから、カステラまで頂かれた。そしてスヤスヤやすまれた。全然手を取られなかった。昨日亡くなられる時の様子はまだ聞くよすがもありませんが、奥さんがこちらへ見えるまではそうでした。そして帰られてすぐということになりましょうね。
それこそあれ程一生懸命福岡から日参してくるというくらいにね日参なさいました。大体が信心が大変巧者の方でありましたが、初めて今度の主人の病気によって、初めて寒修行がどういうものか、日頃先生の教えというものが、頭で分かっただけのことが、体で心で分かってということが、毎日毎日感動であったというのが皆様ご承知の通りでございます。
昨日、お届けされますのに、母が、お母さんが九十幾つになられますけど、お参りされよるのにこげなこと言うて良いかどうか分からんけど、親先生にお届けしてくれというのが、あそこには古い元の蔵があった。蔵に昔からある古い長持ちがあった。その長持ちをお夢の中で、お祖母ちゃんが開けると、蛇が一杯入った、ワーッと言うておる中にです、何時どこに行ったか分からんくらい、蛇がなくなってしまったという夢であった。良か夢じゃあるまいと思うけど、あんたが朝参りするけん、お届けしてくれというのが、昨日の朝の御理解でした。
だからね、私は、めぐりのお取払いということは、どういうことかと言うと、例えば「難あって喜べ」と仰るが、「やれ痛や今みかげをという気になれよ」と仰る。痛いということは苦しいということなのです。苦しいけれども、今こそめぐりのお取払いを頂いておりますという心になるけど、痛いけれども、めぐりのお取払い頂いとるということにお礼を申し上げなければならんということでございます。
私は昨日、それけれども、そういう風に頂いておりますけれども、昨日はね、その古屋さんのお届けを頂きまして思いました。ははあ、めぐりのお取払いというのはね、ただ苦労があったっというだけで、めぐりのお取払いにはならんと。その苦労によって信心が分かって、その苦労によって修行が出来たということにならねば、めぐりのお取払いにならんと私は思いました。まあ古屋さんのお宅には、前々から言っておったことですけど、「お宅の場合は、親戚が全部教会でおありになったり、先生でおありになったり致します。 永年の信心を頂いておりますが、やはり大変めぐりを持ったお家ですねと。まあそれを古屋さんのお家ですねと。もう古屋さんのお家に実感しておることを、はあ私のところめぐりが深こうございますと言いながら、信心は続けておられたけれど、今度主人が入院した。病気になったということによって初めて、それこそ、とても福岡から朝参りなんてと言っておった。古屋さんが本気で朝参りできるようになられたらです、初めてご主人の病気を通して、信心のいよいよ有難さに触れて行くことが出来たとこう言う。それが私はめぐりのお取払いだと思うですね。
だから難儀なところを通ったというだけ、ただ死んだとか。苦しんだとかだけで、そこを通り抜けただけでは、私はめぐりのお取払いにならん。やれ痛やという時に、本気で信心修行させて頂いて初めて、めぐりのお取払いが頂けるのです。蛇のお知らせはめぐりのお知らせと仰るが、しかもそれが家代々からあったようなね、昔事実があるそうです。大きな長持ち一杯の蛇がおったけれども、それが昨日の朝、すっきりそれが出てしまった。なくなってしまったというお知らせであった。それから何時間後に古屋さんが亡くなっておられる。その亡くなられたこと。ああこれで古屋の家のめぐりのお取払いがすっきり出来たなということになります。
ならこれを私の行き方から言うと、私の祈りが足りなかった、信心が足りなかった、不行き届きのところがあったとまあ私自身はそういうところから、言うならば私が古屋さんを殺したということになる。という風な頂き方も私としてはさして頂かんならん。神様は私の不行き届きのために、私の御取次の不行き届きのために、助かるはずのものが、助かることの出来ない事実であったと。毎日沢山のお届けがございましたが、すーっと古屋さんの場合は最後になったことがなかった。
ところが、四五日前に、かっちり最後に来た。だから私はわざわざ御神前に出らして頂きました。最後に、そういう時に、丁度六十人目にあたるわけです、最後が。というような時には助からないと。これは私の永年の御取次の体験からそうなんです。だから私は、あのすぐ御神前に出らして頂きましたら、白玉ポートワインのね、そのお知らせを頂く時には駄目な時です。白玉ポートワイン、赤玉ポートワインでなくて、白い玉の葡萄酒なのです。
ところがね、その包装紙が赤なのです。ははあこれはまだ見込みがあるなと。で私はそこんところをちょっと演出しましてね、奥さんを一番最後に書いて、一つ空けたところに演出させて頂いて、というようなことがございましてね、やっぱしそういうことでございましたということでございますかね。それでも本当に私の御取次の不行き届きであったことと言うこと自身、私は神様にお詫びさして頂きますけども、けれども私は殺したことになったけれども、それを生かすことをこれから努めさせて頂きたい。
それにはね、例えて申しますと、生かすことも出来る、殺すことも出来るという、私は力を頂かなければ出来ることじゃない。その例えば後が、遺族の方達が、ここは見えない世界のことですから、言ったって分かりませんけど、御霊様が本当に生き生きとして助かられる。生き生きとして遺族の上に働かれる程しに、御霊様を生かしてさしあげる程しの信心。また遺族の方達が助かっていかれる程しの信心。これが、私は、生かして行くことだと思うのです。
場合には、傷つけたりまたは殺したり、けれども、それを癒してやるだけの力、それをまた治すだけの力、それには例えば、先程申しました、日田の長野さんが言っておられるように、ただおかげを頂かねばならんから、一生懸命に信心するといったような信心ではなくて、折角信心させて頂くなら打ち込みたい。いろんな宗教の勉強させて頂いたけれども、合楽ではじめてお引き寄せ頂いた時に、親先生にお会いした時に、この人のためなら、この人になら打ち込めれる、この人によって私は助かることが出来るぞと言ったようなものが、長野さんは感じなさったところから、言うなら、折角信心さしてもらうなら、神様に喜んで頂く信心させて頂こう。神様というたところで目に見えなさるわけではないから、私の目の前の神様は親先生だと頂けたところに、まだこれからの信心の抱負を話しておられましたが、「長野さんのそのことは一々神様へお届けしときますよ。長野さんそのことは忘れなさんな」と言うたところでしたけれども。
その焦点がね、本当に神様に喜んで頂くために信心をするというような信心からしか、例えば生かす程しの信心は生まれてこないと思います。そういう信心させて頂きよっても、人間生身のことでございますから、殺すことがあるかもしれん。または傷つけることがあるかも分からん。けれども、それを傷を癒してやれる、治してやれる、死活自在の徳を頂かして頂くために、神様に喜んで頂く信心を頂きたいというようなね、折角信心させてもらうなら、本気で打ち込むというような意欲がですね、やはり出なければ、とても五十六節に、人を助けると言うたようなことは出来んと思う。死んどるものを生き返らせるほどのおかげは頂けんと思う。
まあ例えて申しますと、久保山先生がお国替えになった時なんか、まあこれは私が殺したと、私の不行届きであったというような頂き方を致しましたが、けれど、その後御霊様が生きてござる証拠、または遺族の方達の上に表れておる久保山の信心を見ても、成程御霊様が生きてござる。いわゆる遺族の方達の信心というような意味においての生かすです。
人間は、それはね本当にもう天地広しと言えども、私の頂いておる魂というものは一つしかない。人に貸すことも、与えることも出来ない。その一つの魂をです、私は本気で清めて行こうというのが信心だと思うです。長野さんに、神様に喜んでもらう信心とはどういう信心かとは私は一言も申しませんでしたけれども、神様に喜んでもらうことは結局はどういうことかというと、世界中に一つしかない私の魂清める以外はない。信心は結局心中心。
そこでです、なら、神様に喜んで頂くというか、親先生に喜んで頂く信心とは、どういう時点に立って、どういう風に進めて行くかというと、ということになるのです。例えば、親先生が喜びなさるように、それがそのまま神様が喜んでくださることだと、素晴らしいことだと。ところが、親先生が痒か痒かと言いござるけん、なら掻いて上げましょうと言うて掻いて上げたっちゃ、本当に痒いところは掻かんな、横ぞんにきば掻きよんごたんなら、却ってモヤモヤさせるようなことですから、本当に親先生の心が分からなければ、本当は親先生の喜びを頂くことは、実際は出来んのです。
神様に喜んで頂きたいと言うならです、本当に神様の心が分からなければ出来んのです。その神様の心を段々分からせて頂いて、ギリギリのところをです、私が神様に喜んで頂くということは、本気で神様に喜んで頂く信心をしたい。そんならどうですかと言うとで
す、魂をいよいよ清めて行くという以外にはない。それならばどういう時点に立たなければそうならないかと言うと、障子一重がままならぬ人の身であることを、まず分からなければならんということ。
私が障子一重向こうが分からんのが、私どもの実際の姿、実相なのです。私が神様に喜んでもらう信心が出来るということは、これはもう我である。本当は自分には何も出来ないのだと。障子一重がままならぬ人の身だけれども、神様にさせて頂くということになる時に、神様が喜んで下さることが出来るのです。お参りをさせて頂く、お供えをさせて頂く、これなら間違いなしに、神様はお喜びですよ。神様のお心が分かって、そういう状態になれた時に、いわゆる障子一重がままならぬ人の身であるというところが本当に分からしてもらい、どうにも出来ない人間の知恵力ではどうにも出来ない。
これは自分の財産だ、これは自分の体だと言いよるけれども、どんなにあっても、財産は使うてしまえばおしまい。なら、体でもそうである。自分の体と思うとるけれども、自分のものと思うとる体のそのものが、実を言えば自分の思うようにならない。言うなら、病気した時などは、結局布団の中で動けないのが人間の姿である。 そこで、障子一重がままならぬ人の身、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだという、そこから、これは食物訓に、「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」と仰る。障子一重がままならぬという人の身という自覚に立って、そしてそれから、「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」ということは、食物だけのことではない、どういうものでも、どういう嫌なことであっても、それを有難く頂く心を忘れなよという心、そういう行き方がいよいよ心を研いて行くことです。
神様に喜んで頂く心というものは、端的にですね、具体的にじゃなくて端的に申し上げますなら、まず私が、まず第一神様に喜んで頂く、折角信心させて頂くならば、そういう信心に打ち込みたいという、まず一念を燃やさねばいけません。ならどういうところにならなければならないことを、本当に先生が言われるように、障子一重がままならぬ身であることを、分からせてもらわねばならぬ。それが本当に分かるだけでも、信心の稽古をせねばならぬ。
そこが分かったところから、何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよと。どういう事柄でも、それを有難く頂かせて頂くような頂き方が、いわゆる成り行きを大事にさせて頂く、すべて御事柄として頂く、そういう頂き方が、いよいよ魂を清めて行くことになるのです。
神様に喜んで頂くということは、そういう中からです、お参りをさして頂く、御用をさして頂くことになる時に、初めて喜んでくださるという信心になるのではないでしょうか。魂が清まって行くことが、人も傷つけることもなくなってくるであろうけれども、なら人間というものが、どんなに素晴らしい取次者がありましてもです、親先生が素晴らしい取次者だから、もう合楽の者は一ちょも死なないということは決してないのです。
そこで、なら、まあ思うて頂かねばならんことは、言うならば世界の権威といわれる名
医があるとしましょうか、お医者さんがね、だからせめてあのお医者さんには手を握ってもろうて、死ぬならもう思い残すことはないというような、私は思い、合楽の先生に御取次頂いて、右になろうが左になろうが、それをおかげと頂けるようになって、皆さんの信心を進めてもらわねばならぬ。
私は例えば、おれは勿体ない話、三代金光様の御取次なさった、あるお年寄り、引き上げて帰ってきた。お年寄り夫婦の御取次をなさった時に、お祖父さんがいよいよ悪くなられた。それで金光様の御取次を願われた。金光様が「はい、はい」と受けて下さったから助かると思うとった。ところが亡くなられた。「金光様あのように御取次願っておりましたけれども、おかげを頂いて、こうこうお国替えのおかげを頂きました」と申し上げた時に金光様が、「私の祈りが足りませんでした」と仰ったそうですね。
私どもはとてもそういうことは言えないですね。素晴らしいことです。けれども、取次者としてはです、そこに難儀を氏子が感じておるならです、私の祈りが、私の取次の仕方が悪いからだとやはり頂かねばならんと思うとります。けども、取次を願う側の者としては、ただ今申しますように、あのお医者さんに手を握ってもらって、死ぬならもう言うことはなかと言う程しの、私と皆さんとの中というものは、あらなければならないと思うのです。
そして私は、例え私のそのような取次不調法から、お国替えのおかげを頂かれたと。けれども、これから御霊様が生き生きとして助かられるように、また遺族の方が、本当に本当のことを通してです、めぐりのお取払いを頂かれて、後に生き生きとして信心を頂かれることを私は生かすことだという風に頂いております。
死活自在の徳を受けたい、それはこれからも限りなく続けられて行くことであろうと思う。それをお互い今日の御理解の中からです、長野さんの例をとって、本気で打ち込みたい、折角打ち込むなら、神様に喜んで頂く信心をさして頂きたい。そこで色々工夫があります。どうあらして頂いたら神様が喜んで下さろうかと言うことになります。それを端的にね、皆さんに聞いて頂いたわけです。
同時に、長い間お祈り添えを頂いておりました、古屋さん御霊様の世界で、いよいよ安心の御霊として、おかげを頂かれますように、これからもどうぞ皆さんのお祈り添えをさして頂くわけでございますけども、二十七日午後一時から、ここで告別式が行なわれることになっておられます。今日密葬があるわけでございます。御霊様のいよいよ生き返られたのであると思われるくらいに、いつの場合でも、例えば善導寺の久保山さんのように、本当に御霊の働きと思わねばおられません。といったような働きが古屋さんの家にもお祈り添えをお祈りしたいと思います。どうぞ。